1月5日:真の武人 永野 修身 逝く

1947年昭和22年1月5日 - 永野 修身(ながの おさみ、1880年明治13年6月15日 - 1947年昭和22年1月5日)没。享年67歳。
永野修身

日本の海軍軍人、教育者。千葉工業大学の創設者。
最終階級は元帥海軍大将。
第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍三長官全てを経験した唯一の軍人

軍令部総長時代、独ソ開戦によりソ連を討つの好機到来と北進論を陸軍首脳部に対し、
対ソ開戦については徹底的に反対の立場を貫き通す。

また、日米開戦にあたっては
『海軍としては対米戦争を望んでいないこと、しかし三国同盟(アメリカを仮想敵国とした条約)がある限り、
日米交渉はまとまらず対立関係に入る事、日米交渉がまとまらなければ石油の供給を絶たれること、
国内の石油備蓄量は2年、戦となれば1年半しかもたないことを述べた上で、この上は打って出るしかない。
しかし、勝算を問われると、自己の見解として「書類には持久戦でも勝算ありと書いてあるが、
日本海海戦のような大勝はもちろん、勝てるかどうかも分かりません』と昭和天皇に率直に述べた。

1941年9月6日の御前会議後、永野は統帥部を代表する形で
「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。
しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。
しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。
戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。
そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである」
と語った。

敗戦後、アメリカをはじめとする戦勝国に真珠湾作戦を許可した責任を問われ、
A級戦犯容疑者として極東国際軍事裁判に出廷する。
永野は裁判中、自らにとって有利になるような弁明はせず
真珠湾作戦の責任の一切は自らにあるとして戦死した山本五十六真珠湾攻撃の責任を押しつけようとはしなかった。
また、真珠湾攻撃について記者に訊ねられても「軍事的見地からみれば大成功だった」と答えるなど
最後まで帝国海軍軍人として振舞った。
この裁判での姿勢を見たジェームズ・リチャードソン米海軍大将は真の武人と賞した。

また、ある米国の海軍士官が永野に質問した際、
彼は「この後、日本とアメリカの友好が進展することを願っている」と述べたとされる。

裁判途中の1947年昭和22年)1月2日に寒さのため急性肺炎にかかり
巣鴨プリズンから聖路加国際病院へ移送後同病院内で1月5日に死去した。




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