1月26日:日本の誇るべき外交官の一人 重光葵 逝く

1957年昭和32年1月26日 - 重光 葵(しげみつ まもる、1887年明治20年7月29日 - 1957年昭和32年1月26日)没。享年69歳。
第二次世界大戦期の、日本外交官政治家である。
重光葵

パリ講和会議全権委員随員、上海(シャンハイ)総領事などを歴任。
1932年(昭和7)中国公使として上海停戦協定交渉中、天長節祝賀式場における反日運動家の投弾により右脚を失った。

1933年外務次官となり、ソ連、イギリス、中国の各大使を務める。
1943年東条英機(とうじょうひでき)内閣外相、
1944年小磯国昭(こいそくにあき)内閣外相兼大東亜相として大東亜会議の開催やソ連を通じての和平工作を図るなど、
戦時外交に重要な役割を果たした。

敗戦後、東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)内閣外相としてミズーリ号上で降伏文書に調印したが、
ソ連の要請により極東国際軍事裁判のA級戦犯として逮捕される。
ミズーリ号上での降伏文書調印

1948年(昭和23)禁錮7年の判決を受け、1950年仮釈放となり、1952年追放解除後、政界に復帰し改進党総裁となる。

その後、日本民主党、自由民主党副総裁を務める。

1954年以降は鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣外相として、国連加盟、日ソ国交回復に尽力した。

1956年12月18日、国連総会は加盟76か国の全会一致で日本の国連加盟を承認した。
その際、重光は日本の国連加盟が認められたことに対する加盟受諾演説で、
日本は東西の架け橋になりうる」と表明し、国連総会に出席していた加盟国の代表団から拍手で受け入れられた。
その直後に国連本部前庭に自らの手で日章旗を高々と掲げた重光は、
その時の心境を「霧は晴れ 国連の塔は 輝きて 高くかかげし 日の丸の旗」と詠んでいる。


著書に『昭和の動乱』、『巣鴨(すがも)日記』『外交回想録』などがある。











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