3月26日:名将 栗林忠道 逝く

1945年昭和20年3月26日 - 栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年明治24年7月7日1945年昭和20年3月26日)戦死。享年53歳。
栗林忠道

日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。

第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。
小笠原方面陸海軍最高指揮官)として知られる。

1931年(昭和6年)8月、再度北米のカナダに駐在武官(公使館附)として駐在した。
フランス・ドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派であった「知米派」であり、
国際事情にも明るくのちの対米開戦にも批判的であった。

硫黄島守備の指揮におい敵上陸軍の撃退は不可能と考えていた栗林は、
堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。
水際陣地構築および同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍の強硬な反対を最後まで抑え、
またアメリカ軍爆撃機の空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。
その一方で隷下将兵に対しては陣地撤退・万歳突撃・自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や
『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、
あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた(硫黄島の戦い#防衛戦術)。
また、島民はアメリカ軍上陸以前に本土や父島に避難(強制疎開)させた。

1945年2月19日のアメリカ軍上陸による圧倒的な劣勢の中、
アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えるものの、
組織的戦闘の最末期となった16日16時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電(硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結・#訣別の電文)。
翌17日、大本営よりその功績を認められ、特旨により陸軍大将へ昇進。

17日当日および以降は総攻撃の機会が訪れなかったため、以来時機を窺っていた栗林は26日、約400名の将兵とともに、
自ら指揮を取りアメリカ陸軍航空軍野営地に対し夜襲を敢行し、戦死したと推定されている。



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