4月15日:第六潜水艇沈没事故

1910年明治43年4月15日 - 日本海軍の第六潜水艇が広島湾でガソリン潜航の訓練中に遭難。乗組員14名全員が死亡。
第6潜水艇

この日、第六潜水艇はガソリン潜航実験の訓練などを行うため岩国を出航し、広島湾へ向かった。
この訓練は、ガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出して潜航運転するもので、
原理としては現代のシュノーケルと同様であった。

午前10時ごろから訓練を開始、10時45分ごろ、何らかの理由で煙突の長さ以上に艇体が潜航したために浸水が発生したが、閉鎖機構が故障しており、手動で閉鎖する間に17メートルの海底に着底した。
第六潜水艇は日ごろから長時間の潜航訓練を行っていたため、当初は浮上してこないことも異常と思われなかった。

救難作業の結果、16日(17日)に引き揚げられ、内部調査が行われた。
佐久間艇長以下、乗組員14人のうち12人が配置を守って死んでいた。
残り2人は本来の部署にはいなかったが、2人がいたところはガソリンパイプの破損場所であり、
最後まで破損の修理に尽力していたことがわかった。
佐久間勉大尉
<艇長の佐久間大尉、福井県若桜町出身、兵学校ではのちに内閣総理大臣になった米内光政と同期>

この事故より先にイタリア海軍で似たような事故があった際、乗員が脱出用のハッチに折り重なったり、
他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいる醜態を晒していたため、
帝国海軍関係者も最初は醜態を晒していることを心配していた。

ところが、実際にはほとんどの乗員は配置についたまま殉職、さらに佐久間艇長は事故原因や潜水艦の将来、
乗員遺族への配慮に関する遺書を認めていたため、これが「潜水艦乗組員かくあるべし」「沈勇」ということで、
修身の教科書や軍歌として広く取り上げられたのみならず、海外などでも大いに喧伝された。

アメリカ合衆国議会議事堂には遺書の写しが陳列されたほか、
感動したセオドア・ルーズベルト大統領によって国立図書館の前に遺言を刻んだ銅版が設置され、
真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発した後も撤去されなかった。

イギリスの王室海軍潜水史料館には佐久間と第六潜水艇の説明があり、第二次世界大戦の後も展示され続けている。

なお、今日でも佐久間の命日には、出身地の福井県で遺徳顕彰祭が行われている。
海上自衛隊音楽隊による演奏や、イギリス大使館付武官によるスピーチが行われている。

第六潜水艇記念碑
<岩国市装束町付近にある第六潜水艇記念碑>
















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