5月4日:統一ユーゴスラビアの要(かなめ)チトー 逝く

1980年5月4日 - ヨシップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito / Јосип Броз Тито、1892年5月7日 - 1980年5月4日)逝く。享年87歳。
チトー

第二次世界大戦からその死まで、最もユーゴスラビアに影響を与えた政治家であり、大統領、
ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者である。
「チトー元帥」という呼び名でも知られている。

本名はヨシップ・ブロズ。
「チトー(Tito)」という名前は、「お前(Ti)があれ(to)をしろ」という横柄な文章から取られたもので、
冗談のネタになることもあった。

第2次世界大戦中は、ユーゴスラビアを占領するドイツ軍に対して、パルチザンの指導者として抵抗運動を繰り広げた。

また、第2次世界大戦後は、当初、スターリン主義に基づいて国家建設を進めたが、
1949年には完全にユーゴスラビア、ソビエト連邦の関係は決裂した。
つまりスターリンユーゴスラビアを支配下の置くことができなかったことを意味し、
たびたびチトー暗殺を企てたが、ことごとくチトーは暗殺容疑者を検挙するだけでなく、
スターリン宛に「刺客を送る用意がある」と電報を送ったといわれる。

また冷戦下に社会主義国でありながらソ連に追放されたことから、
第三世界に接近し、チトーは非同盟運動の初代議長となって東側でも西側でもない非同盟陣営を確立した。

内政面では、
『七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家』と言われるユーゴを、
そのカリスマによって各共和国・民族のバランスを取り、連邦の維持に腐心。
特に、純然社会主義体制でありながら与党の中に制限野党を作り、独裁色が強く複数政党政治とは言えないものの、
それに準じた制度を取り入れたことや、
新聞などによる体制批判、即ち言論の自由をある程度許したことは、特筆に値する。
また、民族主義による排外思想家は、秘密警察による監視・摘発の対象になった。
チトー時代のユーゴスラビアは自らの体制批判は許され民族主義的言動は排除される国家だった。

チトー死去後のユーゴスラビアは、様々な民族や宗教の偏狭な民族主義、
分裂主義、宗派主義の勃興と紛争を許すことになる。
冷戦崩壊後の1990年代には民族・宗教間の対立や混乱が激化し、一連のユーゴスラビア紛争が勃発。各共和国は独立し、
2006年にはモンテネグロの独立により、連邦は完全に瓦解した。










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