1月24日:John Bull(ジョンブル)宰相 ウィンストン・チャーチル 逝く

1965年1月24日 - ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. RA、1874年11月30日 - 1965年1月24日)没。享年90歳。
ウィンストン・チャーチル

イギリス政治家、軍人、作家。
第一次世界大戦中から第二次世界大戦、戦後の冷戦時代にかけてのもっとも著名なイギリス政治家の一人。

第一次世界大戦中は海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導し、ガリポリ上陸作戦を主導。
また、西部戦線の塹壕戦による戦線膠着を打開するために戦車の開発を推進、そのため、「戦車の父」とも呼ばれる。
戦車Mark1
<第一次世界大戦で初めて登場した戦車>

1930年代になるとファシズムが台頭、ネヴィル=チェンバレンの宥和政策を批判してナチスの脅威を説いた。
第二次世界大戦が勃発して危機が高まる中、融和政策などの責任をとってネヴィル=チェンバレン内閣が退陣、替わってチャーチルが1940年5月10日に首相となり、対数軸国との戦争を戦い抜く。

1945年5月にヨーロッパでの戦闘が終わって実施されたイギリスの総選挙ではアトリーの率いる労働党が勝利した。
イギリス国民は、平和の到来とともに好戦的なチャーチルの代わりを求めた格好となった。
そのため、ドイツの戦後処理とまだ交戦中だった日本に対する無条件降伏勧告について話し合われたポツダム会談には、チャーチルに替わって途中からアトリーが参加することとなった。

もともと強烈な反共主義者であったこともあり、早くからスターリンのソビエトに対する脅威に警鐘を鳴らしており、特に1946年の訪米中に行った演説「バルト海のシュテッテンからアドリア海のトリエステまで、鉄のカーテンが下ろされた」は冷戦時代の幕開けを告げるものとして記憶されている。

その後保守党を率いて1951年に再び選挙で勝利して第2次内閣を組織、1955年まで冷戦下でのイギリス政治の舵取りを行った。

なお、チャーチルは文筆家としても優れており、特に『第二次大戦回顧録』はベストセラーにもなり、在職中の1953年にはノーベル文学賞を受賞している。
もっとも本人はノーベル平和賞を欲しがっていたので、文学賞の受賞には失望したといわれている。

日本についてはアメリカやドイツほどではないものの重視された国であり、日英同盟には賛成し、第二次世界大戦への日本参戦に対しては融和工作を行い、日本との開戦を回避しようとした。
1941年6月12日には重光駐英大使に対して独ソ開戦が切迫していること、翌年中には米国や英連邦の造船能力の増大などを述べ、勝利を確信しているとしたうえで、「英国は日中戦争については不幸にして日本と意見を異にし、国民的同情は中国にあるが、日本との長い関係は忘れない。日本が大国としてますます繁栄されることを切望しているし、戦後もこの考えは変わらない」と目に涙を浮かべながら語ったという。

また、1953年、日本が主権を回復したばかりの頃、エリザベス2世の戴冠式に出席するため、若き皇太子明仁親王(今上天皇)が昭和天皇の名代として未だに班員置換上の根深く残る訪英した際には、チャーチルは、首相として日英両国が早急に憎しみの連鎖から抜け出すことが双方の国益と考え、明仁親王の訪英でイギリス人が凶行を起こさないよう心を砕いた。

1957年に内閣総理大臣岸信介が訪英し、チャーチルの私邸を訪問した時、チャーチルは以前吉田首相が訪英時に贈呈した富士山の絵を指して、「いつか訪日して自分で富士山の絵を描いてみたかったが、叶いそうもない」と涙ぐみながら語ったという。

1965年1月8日に脳卒中で左半身がマヒし、1月24日午前8時頃、家族に見守られながら永眠した。
奇遇にもこの1月24日は父ランドルフの命日であった。




















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