12月13日:尊王攘夷派公家 中山忠光、暗殺される

1864年12月13日(元治元年11月15日) - 中山 忠光(なかやま ただみつ、弘化2年4月13日(1845年5月18日)- 1864年12月13日(元治元年11月15日))刺客により暗殺される。享年21歳。
江戸時代末期(幕末期)の公家。明治天皇の生母中山慶子は同母姉にあたる。(明治天皇の叔父)

中山忠光
幕末の文久3年(1863年)8月17日に尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が大和国で決起した際は主将として参加。
この天誅組の蜂起は、幕府に対する尊攘派の初めての武力蜂起という点で画期的なものであったが、
挙兵自体は短期間で失敗に終わった。
ただし、幕府領支配の拠点である陣屋や、小大名とはいえその居城が公然と襲撃されたことは、
幕府や幕藩領主らに大きな衝撃を与え、幕府の威光の失墜を更に進行させる結果となった。

この天誅組の蜂起失敗後、八月十八日の政変によって京都の尊攘過激派が一掃されると朝廷からも見放され、
幕府により追討を命じられた彦根藩や紀伊藩兵などにより鎮圧。
忠光は大坂へ脱出し長州に逃れた。

長州藩は支藩の長府藩に忠光を預けて保護したが、
元治元年1864年)の禁門の変下関戦争、第一次長州征伐によって藩内俗論派が台頭すると、
同年11月15の夜に長府藩の豊浦郡田耕村で5人の刺客によって暗殺された。

遺体は長府城下へと運ぶ途中で夜が明けたため、綾羅木(あやらぎ)の海岸の砂浜に埋められた。
後年、当地に社が建立され、現在の中山神社となる。
中山神社

なお、中山忠光の曾孫 嵯峨浩は、満州国皇帝 溥儀の弟 溥傑の妻となった。
溥傑と浩が亡くなったあと、中山神社境内に建立された摂社愛新覚羅社に納骨された。














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